連絡帳読み始めたけど三句でMPが切れて「良すぎて無理……」って言いながらコーヒー淹れに行ってこぼしたところ #BFC3
— なんかよむ千住 (@essay500) 2021年10月31日
知らない人は知らないと思いますが私短歌しかやってなかったのに星野氏の「晶子」で俳句にシフトしたくらい彼の作風ドツボなんですよ
『連絡帳』
まずこのタイトルなのですが、既にかなり俳句に対するエポックメイクをしてやろうという姿勢が強いです。「俳諧は三尺の童にさせよ」という格言があるくらいで、俳人はいかにつまらない視線から脱するかに苦慮した挙句子供のほうが向いてるじゃんって苦しむみたいなところがあるのです。しかし本作、タイトルからすでに「子供やります」と宣言している。私は読む前から怯みました。
俳句の派閥のなかには虚構であるべきでない、その身に起こった現実のみ作品にしてしかるべき、という界隈もあったはずです。それらにも思いっきり喧嘩売ってますね。
「四月くる青野くんから順番に」
ほらー子供やる気だこの人!!!こわいよう!!!
新年度の訪れと点呼の順番は本来ならばまったく関係のない出来事です。それをまるで新しい学年で名前を呼ばれた人から順に四月になるのだ、と考える子供らしい暦の切り替わりを映し出そうとしています。「青野くんから順番に四月くる」でも俳句としては成立するわけですが、常識に囚われた大人を驚かそうとあえてこの語順にしたことが伺えます。
季語:四月、晩春
「教科書が重くてさくらふってくる」
これも本来因果でないものを取り合わせる手法による子供らしさの表現と思われます。毎年あるはずの教科書の重さをあえて言わせるということは、小学校あがりたての一年生を作中主体として示したいのでしょうか。「教科書が重くて」を漢字に、「さくらふってくる」をひらがなに開くことで重さの差を視覚的にも意識できるようにしてありますね。
季語:さくら、晩春
「たんぽぽの上から水がポタンポタン」
いかにも子供向け俳句コンクール入賞作にでてきそうな句です。大人が惹かれるポイントとしては、たんぽぽに水が当たるのが見えている視線の低さ、水の正体を追おうとしない子供らしい興味の狭窄、感動を飾らず言葉遊びに落とすこと、あたりでしょうか。それを大人が逆算でやっているのが本当に怖いぞ。
季語:たんぽぽ、仲春
ん? 季語が季節を逆行しましたね。彼ほどの実力者がミスでこんなことをするわけがない。作品の背景説明のためにわかりやすい四月とさくらを先に出してきたということでしょうか。
「お花見のおにぎりのシャケこぼれそう」
花見の溢れんばかりの桜と、薄桃色した具のシャケのほころびを呼応させている句と読みます。シャケフレークの形も桜の花びらと似ているところがあります。
季語:花見、晩春 シャケ、三秋
季重なりですね。大人が俳句を作るのであれば季語が重なるのはご法度です。これもあえて「おにぎりの具のシャケは鮭だと思っていない」児童性を押し出してきている感じがしますね……。
「いっぱいのばいばいしたら子猫あげる」
幼児度があがって何言ってるのかわからなくなってきたぞ!
季語:子猫、晩春
「ジャンプしてでかい蛙をつかまえる」
ジャンプそれ自体は蛙に帰属する類語ですが、ここでは作中主体をジャンプさすことで意外性や面白みを演出していると見ます。蛙をつかまえる、という子供しかやらない遊びにフォーカスされているところも児童ポイントですね。
季語:蛙、三春
でかい蛙の筆頭は大人目線では牛蛙(仲夏の季語)ですが、作中主体が六歳くらいしかも直前の句がまだ晩春と考えると、いうて雨蛙の育ち中のやつとかを想定させようとしているのでしょう。その大人との認識のギャップからも児童性の強調を狙っているようにみえます。
「遠足は豚さんたちとこんにちは」
逆算の妙がこええ〜。大人になると養豚場をみても豚の運命の前後に思いを馳せてしまってこんな句は出てこないわけですが、いまこのときを写真のようにただ切り取ることに幼児の目のエミュレートを完成させているように思います。
季語:遠足、晩春
「たくさんのメダカのくさい水すてる」
メダカの水槽がくさかったこととかよく覚えていますね。大人なら忘れてしまっていること、大人ならしないことを歌うことによる幼児性の演出と読みます。
季語:メダカ、三夏
まさかこの人、ページで季節が切り替わるようにしたのか?
「かけっこはずっとずうっと涼しいな」
走ることに暑さを感じないのも子供しか持っていない感覚だと思われます。俳句に対する知識量が圧倒的な星野氏ではありますが、こどもの俳句コンクールもしっかりDigっていたということでしょうか…怖。
季語:涼しい、三夏
「先生のお昼寝の顔かわいいね」
これも起こったことをそのまま切り取るタイプの幼児性ですね。感想の率直が子供からしか出ないようなものを選んでいます。先生の属性(性別や年齢)にまるで触れないのも子供の視線の完璧な模倣かと。
季語:昼寝、三夏
「背の順でならぶとさいごカブトムシ」
こうやってオチの意外性で笑かすのもすごい子供俳句っぽいんだよなぁ……。背の順と聞いて人間が並んでいることを前提に読み進めた大人のハシゴを外すような仕掛けですね。きっと前にはカブトムシより小さい虫か、もはや虫ですらない文具とか小銭とか並んでいる想定かもしれません。
季語:カブトムシ、三夏
「あつい手を入れてバケツの水ふえる」
季語:なし
夏の季語のあつしは暑しの字があたるほう、このあつい手には熱いの字があたると思われます。しかし熱された手をかさが増すほどバケツの水に浸すのは夏の子供にしか起こりえない行動で、季語を編み込むまでもなく季節感が詠まれています。高等テクニックすぎる。
「まぶしくてコンビニきれいチョコアイス」
まぶしくてコンビニきれいという広い視野から、唐突に自分の興味のあるものへ視線がぎゅんとズームインする突拍子のなさで幼児性を出したと読みます。
季語:アイス、三夏
「クレヨンの水色みじか夏休み」
夏休みの絵日記で空ばかり描いてクレヨンが短くなっているのでしょうか。ここまでの俳句も野外の句が多く、元気で活発な作中主体の姿を補強するように読めます。宿題もちゃんとやってるし元気で真面目で素直なのかな。写生型の俳句を連打しているあたりからも、素直な子と読ませたいのかもしれません。
定型句におさめるために「みじか」でぶつ切りにしてしまうのも子供の俳句らしさを出しているように思います。
季語:夏休み、晩夏
「楽しくてぐしゃぐしゃになるスイカわり」
何がぐしゃぐしゃになっているか記述されてはいませんが、それゆえに我を忘れるほどの楽しさが出せていると読みました。そういうエフェクトもぜんぶ計算づくで配置されてるのが怖いんだよな。
季語:スイカわり、晩夏
「絵日記のさいごに打ち上げる花火」
急に視線が大人びましたね。もっと開くこともできたのに漢字が妙に多い。ページ変わりを前に不穏が落ちました。
季語:花火、初秋
花火自体は初秋の季語ですが、夏休みの絵日記に描いている(絵日記を伏線としてクレヨンの句で提示済み)ので作中主体の主観的には晩夏の句と思われます。これ絶対ページの切れ目で季節変わるの故意ですね。自分もやろうとした……上級者との技かぶりつらい……
「朝顔の水やり対決に勝って」
花火への視線の大人びは明確に伏線だったようです。今まで外の世界をカメラのように写生していた作中主体が、対決という他人ありきの遊びを題材にしてきました。これまで作中に出てきた他人は先生のみでした。
季語:朝顔、初秋
「先生の机のカマキリがこわい」
他人が生まれた世界を提示したあとに初めて出た他人の先生をまた出してくるのだいぶ怖いな。そして蛙やカブトムシを遊び道具にしていた作中主体が虫を恐れています。幼児的だった感情が急速に広がりをもっているのがわかります。しかも通常、子供にとって安全地帯であるはずの庇護者の机に恐怖の対象を見ている。先生がただ守ってくれる人ではなくなった瞬間に見えます。
季語:カマキリ、三秋
「かっこよくなりたい赤い月がすき」
他者の登場に加え、ここで意思が登場しました。今までの「すき」より明確に深みが増しています。幼児性の強い願いの前半ですが、あとにくるのが戦隊ヒーローやカブトムシではなく、赤い月。違和感が成長痛のような不穏を残します。
季語:月、三秋
「泣きおわるうさぎのりんご食べてから」
自分の感情を自覚し、調整する能力まで手に入れた作中主体。順調に成長を重ねているのがうかがえます。春や夏を読み返すと作中主体は自分の喜怒哀楽に言及していませんでした。
私も応募した俳句連作で起承転結をあらわすのに、春や夏で説明を終えて秋を激変と確立の季節に選んだので技かぶりがひたすらにつらいです。この人の作品を見て勉強してるんだから普通にしていたら技法がかぶるの当たり前だった。応募前にちょっと冷静になるべきだった。つらい。
季語:うさぎ、三冬 りんご、晩秋
また季重なりですが、作中主体の世界観でうさぎは生き物として成立していない可能性をみても良いと思います。もしくは学校に一年中いるので季語として成立しないか。
「どんぐりを振ってかじってからあげる」
五感の複数使い。他者の存在。影響しあうこと。
いまTwitterで誰か児童の発達心理を一望できるサイトくださいと悲鳴をあげたところです。
季語:どんぐり、晩秋
「からっぽで暗い教室運動会」
自分と関係のある目の前の出来事だけを扱ってきた作中主体が、辺縁に目を向け始めました。順調に成長しています。暗い教室の冷えに冬が近づくのを感じます。
季語:運動会、三秋
「落ち葉ふむ昼休みからいなくなる」
未来の出来事を記述する世界観も手に入れたようです。6歳児ってこんなに急に育つのかな。
このテーマに思春期以降の性と主体性の目覚めで張り合ったのが本当に辛い。
季語:落ち葉、三冬
ページ区切りよりちょっと早めに冬がきましたね。これは最終ページになんか仕込んでるやつですね。
「にんじんの星たくさんの誕生日」
作中主体が成長していることを明明確にしてくるような句が挟まりました。作中主体、やや早生まれなんですね。となると春の過剰な幼児性にも整合性がとれてくるようです。
季語:にんじん、三冬
にんじんをピーマン同様ふつう子供が嫌う食べ物にカウントするかは地域差ありそうですが(自分は農村生まれなのでにんじんが非常にうまかった)にんじんを食べられることでも成長を示している可能性があります。
「寒い日のみんなの食べ残しが重い」
一対一の他者以上のみんなという概念がでてきました。ややマイナス目のかなり大人びた現実認識がでてきたように見えます。
季語:寒い、三冬
「ほんとうのオオカミを描く自由帳」
虚構と現実、子供向けとリアリズムの違いを意識するようになった作中主体。宿題と違い他者から課されることのない創作に挑むのも成長に見えます。
こんな爆速で子供の成長を俳句に落とし込む技術こわいよう。
季語:オオカミ、三冬
「先生の寝ぐせかわいいうさぎ小屋」
ここにきてしばーらく前に何気なくあった「先生のお昼寝のかおかわいいね」が解像度を上げた形で再臨してきました。まって視界の端に先生がいっぱいある怖い怖い怖い
季語:うさぎ、三冬
うさぎのりんごから一歩進んでうさぎを冬の季語として認識できてますね。俳句で成長を見せる小技の手札が多すぎる。
「くしゃみしてふっとぶ先生のメガネ」
「先生のお昼寝のかおかわいいね」の句で先生の属性に触れないことで幼児性を出していた伏線を回収し、先生への解像度が明らかにあがったことを見せていると読みました。
季語:くしゃみ、三冬
「雪ぎゅっと握れば熱くぬれるんだ」
「雪玉をぶつけた先生のおしり」
ここにきて二句が対になり呼応するものが出てきたように見えます。作中主体がぎゅっと込めたものを、あえておしりに当てている。先生を性対象として意識しだした作中主体が浮き彫りになりました。最終ページ中央、見事な位置に調整されたクライマックスですね。
このテーマに思春期以降の性と主体性の目覚めで張り合ったのが本当に辛い。(二度目)
季語:雪、晩冬
「先生はみんなをすきで春休み」
先生を性対象としてみていたことを念押しのように示す失恋句。きっと学年を上がる子供たちへ、終業式に送る言葉として発したことと読めます。活発で素直な作中主体のキャラクタが丁寧に描写されていたからこそ胸が痛むものがあります。伏線の敷き方が完璧すぎる。
季語:春休み、仲春
初春がパスされました。季語の分類を見ずとも、雪から春休みは時の流れがかなり飛んだように見えます(関東基準)。この空白に先生となにもなかった痛みのようなものがこもっているように思えますが、地方によっては春休み前まで雪があるので誤読かもしれません。
自分は慌ただしい結婚の準備を示すのに季語をパスりました。技かぶりだとしたら本当につらいです。
そもそも論として「恋の俳句は難しい」が定説であり、じゃあやったろ★と食い付いたら師匠も同じ課題採ってるその瞬間から敗北が決まっていた風があります。戦法があまりにも裏目に出まくっている。目から血が出そうだ……。
「先生が別の先生四月くる」
最後まで読むと初句の「先生」が今までの二人称ではなく一般名詞としての「先生」であることがわかる仕掛けと見ます。またひとつ作中主体の世界観の成長と鈍い失恋の痛みを残して連作が閉じられました。
季語:四月、晩春
連作冒頭と同じ季語を斡旋する、しかも最初の句は初句に四月、最後の句は結句に四月とすることで児童の世界観における季節の円環構造を的確に表現しています。読後感まで手を抜かない緻密な構成でした。
タイトルの『連絡帳』は最後まで一度も出てきませんでした。作中主体と先生が直接つながれる唯一の手段である連絡帳。作中主体の成長がもっとも克明に記された場所である連絡帳。どちらを採っても味わい深いタイトルであるように思います。
これはまける
はりあってすみませんでした
ついでにわたしのまけたやつ読んで「あー」ってなっていくかい?