※NieR:Automataのネタバレも含みます。ご注意ください。
サムネイルに本文が出てしまうので、私の話から始めましょうか。
あなたはゲームの主人公に、自分の名前をつけるタイプですか? 新しい名前を与えるタイプですか?
私は後者です。
そのためゲームはまるで小説のように、主人公の体験をのぞき見る気持ちで進めていきます。
今まで色々なゲームをして、ときに人間を超越した存在、魔王や神と対峙してきました。でもそれはあくまで主人公が神と対峙しただけであって、私はいつも傍観者でした。
さて、このたび『UNDERTALE』のNルートとPルートをクリアいたしました。
Nルートはノーマルエンディング、Pルートは俗にトゥルーエンドとされる大団円です。
最初に入ったNルートでは、お花のフラウィが人間のタマシイを手に入れ、ただのキャラクターを超越した存在になります。フラウィがまず何をしたかというと、セーブデータを破壊し、リセットもロードもできないようにしたのです。主人公を何度も殺していたぶるために。
避けられっこない過密な弾幕。1ダメージしか通らない攻撃。死んでも死んでもタイトルに戻れない。リセットもロードもできない。強制的にまた同じ戦闘が始まる。こわい。無理。どうやって終わらせるの。
気がついたら主人公ではなく、私自身が神と対峙していました。神への畏怖と萎縮がそこにありました。
ゲームにおける神ってなんだろう?
主人公とプレイヤーの気持ちが一致したとき、何に畏怖や超越を感じるだろう?
その答えのひとつを「セーブデータを操る力」に見た気がします。
「不可解なパズルを渡した神に、いつか、私たちは弓を引くのだろうか」
そんな文言から始まるアクションRPG 『NieR:Automata』。その通称Eルートでは、スタッフロールを破壊することで物語を改変し、悲しい結末を逃れます。プレイヤーは最後「セーブデータと引き換えにハッピーエンドを望む他者を助けるか」と問われます。
最近完結した『仮面ライダーエグゼイド』もセーブやリセットがキーワードでしたね。
メディアミックスが盛況する『Re:ゼロから始める異世界生活』もセーブ地点への巻き戻しを軸に進んでいきます。
『ドラゴンクエストⅠ』でセーブ地点が教会に定められて以来、長らくセーブはゲームにとって当然の機能でした。すっかりゲームが普及した現代。セーブとは何なのか、ゲームにおける神とは誰なのか、再考する機運が高まっているのかもしれません。